ミルクレープを崇めよ…

自分が個人的な思いの丈を延々と書き連ねていくサイトです。

好きと知りたいの間にあるもの-行動原理から考えるオタクの和睦

はじめに

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無気力な人のいらすともある、いらすとやは恐ろしい子だよほんとに・・・

 ひさびさのブログ更新ですね、ほぼ1ヵ月!

いや、別にモチベーションがあがらなかったわけではないんですよ。

 実はブログを書いている間、結構な時間を書くことに費やしているので買ってた本とかが何十冊も溜まっちゃって、これはいかんなと思ってちまちま消化してたらすっかり更新を怠ってしまって。よくないなと思いました。

 そんなこんなでいろいろな題材の本を読んでました。都市計画だったり、エッセイだったり、ドキュメンタリーだったり…。

 

 そういうある種インプットをしてきた中で、なんとなーく浮かんだことを書いてみようと思います。ぜひ最後までお付き合いください。

 

 

  • 目次
  1. オタクは好きが溢れている、狂っている
  2. オタク≠物知り
  3. 好きと知りたいの差って?
  4. 総論

 

1.オタクは好きが溢れている、狂っている

 まず、僕はオタクをこういう種族というかこのようにぼんやりと認識している。

 例としてアニメオタクを考えてみよう。

 

 彼らにもいろいろタイプは存在するのだが、ある者は毎クールアニメを欠かさず視聴し、ある者は声優に熱を上げて音源やライブを熱心に追いかけたり、またある者はアニメの演出面や技術的な部分からいろいろと考察をしたり…。

 

 これらの行動は好きじゃなければできないことである。

 

 まあ、当然である。仕事であるならかかわらず、これらの活動はまったくもって金にならない。むしろ金が減っていくばかりである。

 好きじゃなければできることではない。しかも、いまだにオタク以外の人間からは奇異の目で見られることは確実なのだから、その外圧にも屈しないでやれてるんだから、当たり前だが本当に好きなんだなと感じさせる。

 

 実は、これらの行動は何も「アニメ」というカテゴリに限定される話ではない。どのオタクに対しても成り立つ。音楽だろうと電車だろうとミリタリだろうと、このロジックは成り立つ。

 

 かく言う自分自身もそのようなオタクの1人である。そこに損得の感情はないし、このような活動をしていると心が充足するから続けているに過ぎない。

 

 先ほど非オタクの人間からは奇異の目で見られると言ったが、僕はそれを仕方のないものだとして受け入れている。

 普通、という形容もおかしいのだがやっぱり社会生活を営む人間というのも生物の一種である。そのため当然打算やリスク管理などある種の生物的本能とも言えるものが働く。それが現代の人間で言えば「金」であり「時間」の分配にあたるのだと思う。

それらはすべてリスクを回避することと将来の利益獲得のための行動である、そう考えている。

 

 しかし、オタクはどうだ?

 金も時間も情熱も、下手したら衣食住にいたるまでオタク活動のために犠牲にしている者も珍しくない。

 

 これすごくない?

 

 自分で振り返っても完全に狂っている。リソースの配分の仕方が完璧にぶっ壊れている。

 精神的な充足はともかく実利的なリターンが見込めるわけではない。むしろ出て行くもののほうがはるかに多い。

 近年ではSNSの発達で趣味と人間関係の距離が近くなったとはいえ、常日頃会うような間柄の人間は距離的にも少ないだろうし、人間関係構築に割く部分もどこか狂っている。

 

 それでも彼らはやめない。

 好きなのだからやめるわけがない。

 

 僕はこの非合理的かつ狂った行動理念を人間とほかの生物を分けるもっともらしい部分であると感じている。

 断っておくが、別にオタク活動することが偉いとは思っていない。

 

 こういうことを書くとすぐオタクは偉いみたいなことを言いたがる人間が出てくるので、今一度言っておくのだが別に偉くもなんともない。

 

 リソースの配分の仕方が完全にぶっ壊れている、そう僕は言っているのだ。

 

 そう思うと奇異の目で見られても仕方がないと思うのだ、だって「違う」んだもん。

 非オタクとは行動理念もリソースの割き方も、考え方も何から何まで異なる。

 

 そこまで違う存在を理解する、というのは容易ではないのだ。

 

 このようにオタクには好きがあふれている。狂気的なまでに偏愛で満たされている。

それがオタクなのだと自分は感じている。

 

2.オタク≠物知り

 最近はそんなに多くないと思うが、今でもオタクというと物知りであるイメージを持つものも現存している。

 

正直、SNSはじめるまでの僕もそう思っていた。

 

 オタクは好きなことがいっぱいあるからいっぱい勉強するのだ…そんなことを思っていたのだ。

 しかし、実際にSNSを始めてみたらそれは完全に間違った認識だった。

 

 よく考えたら当然である。オタクと言うのは好きが溢れた人たちなのだ。別にそれは物知りであることを担保しない。

  好きなことには詳しいけど、ほかの分野はちょっと…、というものでもない。

 人によっては当然好きだからいろいろ知りたいというタイプの人間もいるだろうが、必ずしもそうではない。

 好きだから、それを声高に叫びたい者やみんなと気持ちを共有したい者(ここら辺でなんだかんだオタクも人間なのだということがわかる)、

ひたすら好きなモノに囲まれていたい者などその内訳はさまざまなのだ。

 

 その中に物知りという存在がたまたま含まれている、とうだけなのだ。

 

 そう、たまたま「好きだからもっといろいろなことを知りたい!」というタイプの人間がオタクであるというパターンである。

 

 好きだからこそ常にいろいろな知識をインプットして好きなものへの理解をより深めていく。場合によっては直接関係のないようなことまで調べ上げて、それを材料にしたり強引に結び付けていく。

 

 このタイプのオタクは実はそんなに多数派ではないということを先に理解しておく必要がある。

 

 ここの前提が意外と抜けがちだからこそ、オタクなのに物知りなタイプではない人を見るとなんともいえない不思議な感覚に陥るのだ。

 

3.好きと知りたいの差って?

 SNSというツールで人とつながるようになった僕がここ最近常々考えてるのがこのテーマである。

 オタク云々ではなく、そもそもこの両者は何が違うのか?

 

 もちろん、オタク的な性質を持つことと知的好奇心が強いタイプの人というのは共通項を持つことはあるのだが、先ほど述べたように別に同一の存在ではない。

 

 僕はこれを「精神的に満足できるかどうか」の差であると認識している。

 

 物質的な面ではなく、知りたいことが多い人間というのは基本的に満足できない。

  

 好きなことだけに囲まれていれば満足できるタイプの人、というのは満たされているように思える。

 もちろんリソースの配分は狂っているが、彼らは好きなものに囲まれていると心が安定し、「これでいい」と認識することができる。そしてそこに疑問を抱くことはない。

 

 物知りなタイプ、知りたいオタクはそうではない。

 

 僕が何でも知りたがるタイプの人間だからそう思うのだが、基本的に満足できない。

 人からほめられようが、好きなものに囲まれていようが、他人より知識があろうが満たされることはない。

 なぜなら知らないからである。このような人間にとって知らないということは一種の楽しみでもあるがストレスでもある。

 

 完璧な理解をしないと気がすまないのだ。しかし、完璧な理解などはこの世に存在しないのでまた新たな疑問が浮かび、それをまた調べて…というプロセスを延々と繰りかえす。

 

 たとえばとあるアーティストがいる。

「好き」という部分で充足できる人間は、彼らの曲を聴いているだけで満足できる。

 少しいろいろ知りたいと思うことも人間だからあると思うが、それが過度に広がっていくことはない。

 そして時に感情を共有して一緒に愛好したいのかもしれないが、それは知的好奇心に基づく行動ではなく、感情が水のごとく広がっていく横方向の心の動きである。

 

 「知りたい」もしくは「知らないと気がすまない」人間は、それでは満足できないのだ。

 

はたしてどのような影響でこのような音楽になったのか?

そもそもこのアーティストはどういう人間なのか?

この音楽が成立した社会背景は?

ほかにどういうのがいるのか?

過去から現在にかけてどのように評価が変遷してきたのか?

 

…などなど、ありとあらゆる場面に即座に疑問が浮かんでしまう。なぜなら、対象を完璧に理解していないから。

 

 そして、他人と共有することよりも知識をひたすらに深めることに充足感を覚える。

しかし、それも長く続くわけではない。疑問というのは生きている限り終わらないからである。そして、完璧な理解というのは不可能だからである。

 

 調べれば調べれるほど、自分の知らないことが見えてくる。そしてそれは解消したいことだから、また同じことを繰り返す。

 

 これは掘削のような心の縦方向の動きだろう。これはどちらが高尚であるかとかそんな話ではない。単純な違いである。

 

 このように根本的に行動理念や心の動きが違うのだ。

 

 以上のことを理解していないと、「好き」と「知りたい」のスタンスが違う人間同士が衝突を起こす。

 お互いがお互いの行動理念を一切理解できないからである。不毛なことだ。

 

 精神衛生的にはおそらく前者のスタンスのほうがいいのだろうが、後者の人間が前者に変化するのも、その逆もなかなか難しいんだろうなと26年の人生の中で感じている。

 

 お互いに尊重して生きていければ、それが最高なんですよね。なお現実…。

 

4.総論

 違いがあるオタク、どっちも一般人から奇異の目で見られるのは変わりないんだから仲良くしましょう…

 

 そこまでは言わないけど、まあお互いバトルしあってもいいことはないし、
モンロー主義(かつて、アメリカとヨーロッパが相互不干渉を決め込んだやつのこと)を貫こうね。

 友達100人できるかな、とかいう歌が悪い、世の中敵ができなきゃそれでいいんだ…。

 

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 僕はこういうスタンスだから、敵どころか友達もろくにうまく作れないんですけどね。

 

最後に

 なんかいろいろなことを思い出しながら書きましたよ。

 単純な書き方もそうですが、気分の乗せ方とかも含めてなんとなくリハビリになった気がします。

 最初のほうはかなり気負いながらブログやってたので、このくらいの適当さがいいのかもしれません。

 これからもマイペースにぼちぼち更新していけたらいいなあ、そんなことを思いました。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました!