哀愁と情熱のあいだ~清春「夜、カルメンの詩集」(2018)
はじめに
清春が50歳を迎えるなんて好きになり始めたころは考えもしませんでした。そもそも、好きな歌手が歳を重ねるということや自分が歳を重ねることがまるでピンときてませんでした。
そんな僕も20も半ばを過ぎ、時間は誰にでも無情に訪れるし平等に訪れるということ、それを否が応でも実感せざるを得ない年齢になりました。
しかし、嬉しいのは自分が歳を重ねても好きな歌手は好きなままで、ずっと格好良くいてくれることです。
歳を重ねるというのは何も悪いことではないのだ ー それを作品で示してくれているようで僕はとてもうれしくて…。
特にヴィジュアル系と呼ばれるジャンルの方々はどうするのか、その1つの回答が詰まっているこのアルバムを今回はレビューしようと思います。
清春「夜、カルメンの詩集」(2018)
- 悲歌
- 赤の永遠
- 夜を、想う
- アモーレ
- シャレード
- 眠れる天使
- TWILIGHT
- 三日月
- 美学
- 貴方になって
参加ミュージシャン
- 全作詞作曲:清春 全編曲:三代堅、清春
- Guitar M-1,2:智詠 M-2,8:大橋英之 M-3,5,7,10-是永巧一 M-4,6,9:DURAN
- Bass 沖山優司
- Drums M-3,5:佐藤強一 M-1,2,4,6~10:Katsuma(coldrain)
- Percussion M-1,2,4,6,9:容昌
- Keyboard M-1,6:中村圭作
- Top Violin M-7:沖祥子
- 2nd Violin M-7:伊勢三木子
- Viola M-7:志賀恵子
- Cello M-7:四家卯大 M-10:Robin Dupuy
- Violin: M-9:土屋玲子
清春にとっては9枚目のオリジナルアルバムであり、前作「SOLOIST」からはおよそ2年ぶりのオリジナルアルバムである。
僕は前作の時点で彼のソロ活動を1つの到達点に達したと思っていた。それは名前からも伺い知れるし、インタビューや楽曲の内容からも垣間見える。
そのアルバムの先はどうなるのだろうと注視してたのだが、リズムレスアルバム「エレジー」を経てまた新たな景色が見えたのだろう。
今作では最小限の構成で作られたエレジーとは対照的に豪華なサポートミュージシャンを迎えて制作された。
名バイプレーヤー是永巧一がその筆頭であるが、ベースの沖山優司もアンジェラ・アキや、YUKI、キリンジ、郷ひろみなど数々のアーティストのライブやレコーディングに参加している名ベーシストである。
音楽的にはフラメンコとの融合を試みた彼だが、それがどのようになっているのか。1曲目から順に見ていこうと思う。
ちなみに、前作のオリジナルアルバムについては昔レビューを寄稿したのでそちらを参照していただけると幸いである。
delivery-sushi-records.amebaownd.com
1.悲歌
メロウさと切なさを持ったオープニングナンバー。
ここ数年の清春の指向としてバンドサウンドやロックサウンドからの脱却が挙げられるが、この曲にはソレが顕著でエレキギターが使われていない。
その代わりに全面に押し出されているのは智詠(ちえい)のフラメンコギター。
彼は名フラメンコギタリスト、沖仁のサポートを務めている。そして彼もまた名ギタリストであり、哀愁を帯びたフレーズに心を奪われる。
フラメンコ色を更に強くしてるのは実は容昌(ようすけ)のパーカッションだと僕は感じるし、ここまでフラメンコと清春の歌謡曲的な楽曲は相性がいいのかと驚かされるばかりである。
歌詞に注目すると悲歌、または哀歌というのはエレジーを意味する悲しみを伴った詩などの文学作品の総称である。
この曲もその名に違わぬ通り、どことなく悲しみを伴った歌詞の内容となっている。
”嗚呼、側にいる時は
数秒だけど すべて消える
今日会おうか 会いに行くよ
何故会ってるだろう 知ってる”
や
”さあ、夜よ、守っていて
気が晴れるようで 聞いていて
目を閉じて 倒れそうで
酷く 明るい色 数えているよう”
の部分の歌詞は何処か哀愁と年齢を感じさせる深みのあるものになっている。
これらの要素がフラメンコの哀愁の部分と組み合わせることで、名前通りの「悲歌」に仕上がっている。
Katsumaのドラミングもそこにまた哀愁を加えると共に、歌謡曲的なテイストでも難なく叩ける彼の技量には驚かされるばかりである。
清春の歌謡曲的センスと、年齢やキャリアによる深み、そしてフラメンコの要素が見事に合致した曲なのだ。
ちなみにコレは余談なのだが、
フラメンコ、というと一般的には情熱的でハイテンポな物をイメージしやすい。しかし、実はフラメンコの曲調にはかなり種類がある。
特にこの曲には深みと威厳のある曲種「ソレア」に近いものがあり、それが歌謡曲的なテイストと混ざりあうことで普段の清春以上に切なさを感じさせる物に仕上がっていると思う。下の動画はソレアの例なので参考にしてほしい。
2.赤の永遠
前曲とはうって変わって普通のリスナーがかなりイメージしやすい情熱のフラメンコ要素が強いナンバー。
イントロから響き渡る智詠のフラメンコ・ギターがまさに情熱的なフラメンコのブレリア(宴のシメによく使われるフラメンコの中でも最も速く激しい曲調のもの)を僕たちに魅せてくれるように感じるし、
その後から入る疾走感あるKatsumaのドラムや容昌のパーカッションが血肉を湧き踊らせ、それはまるで舞踏会のようである。所々に入るパリージョ(フラメンコの踊り子が両手に持つカスタネット)の連音符が本当に映える。
それらが歌謡曲のメロディアスさと合体することで産まれる唯一無二の音楽は清春の新たな可能性を感じさせてくれるし、単純に格好いい。
また、歌詞もフラメンコを意識させるようなものがあるのだが…
”泣き狂えバイレ 闇、純愛、光
引いた眉の色 夜に届く箱のドレス”
この部分。バイレというのはフラメンコでよく見る、かかとや爪先を踏み鳴らすあの独特の踊りのことを指す。
サビの部分が非常にリズミカルかつ疾走感溢れており、
”焦がれたままの狂言を
赤い永遠の前に立って
軽く遠回りをしたのは
雨の憧憬”
情熱と哀愁というフラメンコの二面性、不朽さと果てのない遠さという「永遠」のもつ異なる性質をよく体現した歌詞である。これらがフラメンコギターやドラム、パーカッションの疾走感と重なることで、聴衆をさらに曲の世界に引きずり込む。
それでいながら、無理にフラメンコに寄せすぎようとしないこと、つまり異物感を残すことで歌謡曲のメロディアスさとフラメンコの疾走感を両方残すことに成功している。
ロックサウンドからの脱却、そして朝鮮が垣間見える1曲なのだ。
ちなみに、ブレリアというのはフラメンコでもこのような曲を指すが、如何に疾走感と情熱を帯びているかがわかるだろう。
3.夜を、想う
赤の永遠に続き、情熱を感じさせるアップテンポなフラメンコナンバー。
前曲とこの曲は元々フラメンコを意識して作られているため、今までの清春よりもスパニッシュ色が強いのは妥当である。
しかし、再度いうが清春とスパニッシュなナンバーがここまで似合うと予想したものは多くないのではないだろうか。
実はこの曲のギターは智詠ではなく是永巧一が弾いている。彼自体は別にフラメンコギタリストではないのだが、見事にスパニッシュなテイストのギターを弾きこなす技量があるあたり、その引き出しの多さを感じさせる。
佐藤強一は是永巧一とアマチュア時代からの知り合いで、30年以上の活動歴を誇る歴戦のドラマーである。その彼のドラムの音のヌケの良さが、そして歌メロを邪魔しない堅実なドラムが哀愁さの漂うアルバムの収録曲の中でひときわ開放感をプラスしている。
歌モノの特性かベースもドラムも基本的にはボトムを下支えすることに徹しているのだが、フラメンコギターが大きくフューチャーされるその特性で日本のメジャージャンルでは中々聴くことの出来ないテイストに仕上がっている。
歌詞は「想う」という動詞に相応しいものになっているほか、情熱の刹那を思わせる部分が散見されている。
”Oh 愛しい人よ最後に
寄り添えた時を思い出してみて”
や
”I can 澄んだ水の中に浮かべてるよ
I love 千切った花色に君が見えるよ”
これらの部分は恋の刹那を感じさせる。
ただ、若者が歌う恋とはまた雰囲気が異なるようで…
”the dance of death
夢よ、愛欲よ こう想う
会いたいって歌う君だけを想う
Uh love in vain…stay”
”the dance of death
廻る生涯 僕は想う
どうやって生きるべきかを迷う
Uh love in vain”
このあたりには死や諦観、そして人生を感じさせる単語が数多く並んでいる。
おそらく清春のキャリアと関係のある歌詞なので、彼の音楽を長らく聴いている人が理解できる部分もあるのだろう。
ソロを聴いていると感じるが、清春はキャリアによってかなり歌詞や表現が変わっていく人である。
しかし、その中でも自分の美意識に従うという点では一切ブレの無いように感じるし、それを誰よりも格好良く魅せることができる。そのあたりにロック・スターの風格が漂っているし、何よりもそれを象徴してるナンバーのように思えるのだ。
4.アモーレ
「愛、恋、恋愛、愛する人」をタイトルに関したアコースティックな色彩の強いバラード。
今作でのギターはDURAN。ファンキーなギターやブルージーなテイストのギターをよく弾いており、稲葉浩志やスガシカオのサポートを務めている。
そんな彼もアルバムのカラーに合わせて、スパニッシュなギターを披露していることに僕は驚かされている。
Katsumaがここではドラムを務めているが、彼がcoldrainのドラマーであることを考えるとそのパブリックイメージとの違いやアプローチの多彩さを体感できるだろう。
清春のソロでのバラードというと近年では「UNDER THE SUN」や「ナザリー」を思い起こすのだが、その2つに比べると音は簡素でバンド要素は「SOLOIST」時代よりも更にその割合が少なくなっている。
イントロのアルペジオの美しさやベースラインをドラムがその少ない音数でより際立たせているように思う。
おそらく、黒夢とSADSしか知らないリスナーが聴いたらそのあまりの変化に戸惑うだろうし、物足りなくも思うかもしれない。
しかしながら、その歌謡曲的メロディアスさや清春の歌声はますます際立っているように思うし、彼の超個性的な歌声が既にある以上はこのくらい簡素でも十分ななのだなと僕は感じるのである。
歌詞についてだが、特定の対象に向ける強い愛情とともに、それを指し示す単語として「カルメン」という単語が象徴的に登場する。
”夜、あなたがした 愛撫
舞い この瞬きで カルメン
闇、一緒にいたよね”
AメロやBメロにこのような歌詞が見られ、カルメンはおそらく人名だと思われる。
そしてサビでは…
”アモーレ 貴方は魔性の 淫ら
アモーレ 唇が這う Ah
アモーレ 狂おしい吐息 喘ぎ
アモーレ 全てを受け入れ”
このように、何処か情熱的でありつつも耽美で官能的な愛が表現されており、ソレがカルメンとの一幕を指しているということは想像に難くないだろう。
エロスを全面に出した歌詞といえば黒夢の「LET'S DANCE」やSADSの「ストロベリー」が挙げられるが、ソレとは全く違う方向の表現による愛の表現に清春の表現の方向性を垣間見ることが出来るのだ。
このような、表現の妙を味わい尽くせるナンバーと言えるだろう。
最後に、ここで1つ付け加えるとするとカルメンという単語についてだろうか。
元々カルメンというのはフランスの作家プロスメル・メリメが書き上げた小説、またはその中の主人公の名前でもある。
そして、それをもとに作曲家ジョルジュ・ビゼーが書き上げたオペラもカルメンと呼ばれる。
すご~く簡単にあらすじをいうと、
真面目な兵士であるホセが自由人であるジプシーのカルメンと恋に落ち結ばれる。しかしカルメンは超移り気ですぐに別の男に乗り換える。最後は嫉妬に狂ったホセがカルメンを刺し殺す…。
なんというか情熱的な人に振り回される男の性(さが)を感じさせるのだが、これを知っているとこの曲が違って聴こえるかもしれない…。
5.シャレード
アモーレに引き続き、前曲以上に少ない音で歌を際立たせたバラード。
スパニッシュ色は前4曲よりは少なめである上、実はこれがアルバムの中で初めてエレキギターが使われたナンバーである。
是永巧一がおそらくブリッジミュートで最小限のカッティングを淡々としているからだろうか、ギターの音自体はかなりザクザクしている上に登場回数は多くない。
しかしそこに空間的なエフェクトが効果的に使われてることで、低音とともに音と音の隙間に静かに拡がっていく、いわば聴かせるギターを披露してくれている。
そして、それが佐藤強一のドラムフレーズや沖山優司のベースラインを際立たせている効果も付与しているように思う。
三代堅が編曲を全曲で行っているが、オルガンのような電子音がそこに厳かさと仄暗さをプラスしているのが個人的にかなり好みである。
この曲のタイトルは「シャレード」なのだが、とりあえずシャレードという言葉の単語の意味を調べてみた。
それによるとシャレードは英語でcharade、いわゆる身振り手振りで表現された言葉を当てるような、つまりジェスチャーを使った遊びらしい。
他にも、オードリー・ヘップバーン主演の映画のタイトルやダイハツの車の名前などいろいろでてきたのだが、清春という人間を考えるとやはり最初の意味が妥当だろう。
シャレードという単語が出てくる回数は少ないのだが、以上を踏まえて歌詞を見てみよう。
サビ前の部分なのだが、この部分。
”シャレード 幻の様に
サイレント 触れていたまま”
や
哀憐 失くしたまま”
シャレードという単語と喪失感をセットにしているあたりには、想いが伝わらないことの暗喩なのだろうか。
サビでは一切シャレードという単語が出てこない代わりに薔薇という単語が象徴的に登場する。
”君がただ愛しい泣いた薔薇
遠い夜を 遠い夜を超えて
陽はまだ登らない 濡らして薔薇
悲しくないなんて哀れだね
遠く 遠く Ah”
や
”君は歪む鏡 笑ったなら
暗い夢を 暗い夢を超えて
君はただ愛しく 泣いて薔薇
甘く甘く覆う愛の華
遠く 遠く Ah”
のサビの部分である。
どちらにも強い喪失感が見られるのだが、これが単なる失恋を指しているとは思えないし、清春はそんなことを表現する年齢ではないだろうと僕は思う。
アルバム自体がスパニッシュというテーマなので、この薔薇の色はおそらく赤であり、赤い薔薇の花言葉はどれも愛に関係している。
愛と涙や暗い単語を組み合わせること、それは男女だけではなくファンと自分、更には親子の死別…など様々な意味合いの愛の喪失この「薔薇」の一言に含ませているのではないかと睨んでいる。
何れにせよ、音をなるたけ最小限にしたのはおそらく歌詞を丁寧に聴かせたいという意識の現れだろう。
そして、シャレードという単語と喪失感、さらに薔薇を組み合わせた歌詞は伝わらない事を強調する意味合いもあるのだろうが、聴き方によって幾通りもの解釈ができるのだ。
この曲から夜って感じがなんとなくすることもあって、実は僕のお気に入りのナンバーです。
6.眠れる天使
DURANのファンキーなギターがとても印象的なミディアムテンポのナンバー。
まず、フラメンコ・ギターの調がそれだけでスパニッシュさを曲にもたらすことに驚く。これは幼少期からの刷り込みも大きいのだろうし、曲のテーマに自分が引きずられているということもあるだろう。
しかしながら、フラメンコ・ギター特有の鋭く細い音がフラメンコの情熱と哀愁という部分の表現の核を担っていることは門外漢の僕ですら想像ができる。
また、歯切れがいいファンキーなエレキギターのカッティングがいいアクセントになり、どこか乾いた響きながらも軽快さを曲にもたらしている。
個人的にこの曲の主役はギターであり、このフラメンコ・ギターとエレキギターの絶妙なフレーズの組み合わせこそがグルーヴを生み出していると思う。
パーカッションとドラムのフレーズはそこまで難しくはないし、骨子は真っ当なロックのビート感なのだがセビジャーナスも少しは意識して、入れているのだろうか…。
ここでいうセビジャーナスというのはフラメンコの数あるフラメンコの曲調の一種で、セビリアに伝わる民謡や踊りの1つでもある。
※セビジャーナスの例
眠れる天使、という言葉だけ聴くとなんだかヴィジュアル系的な美意識を感じるのだが実際はどうなのだろうか?
”わたしが泣いてる 夜にそっと
囁いて眠れる天使
あなたは儚い記憶だって
燃えるように届ける
さぁ羽ばたいて”
サビにこのような感じの歌詞がいくつか垣間見えるのだが、ヴィジュアル系的な美意識というよりは普遍的な美を表し、またそのような言葉が似合う人物を指しているのだろう。
もしくは、善の象徴としての天使か。
どうにしろ、ヴィジュアル系的な美的感覚から発せられたものではないようだ。
サビの部分の言葉のはめ方がリズムと合致しているように思えるのは気の所為ではないだろうし、どことなく歌謡曲的な歌メロを感じさせるのがフックになっているように思う。
個人的にこの曲が大好きなのだが、特に…
”漂う悲壮
思えば辿れるよきっと
彼方高く”
この後から続くDURANのブルージーでファンキーな20秒弱のギターソロ。
めちゃめちゃかっこいいですね。
7.TWILIGHT
どことなく「SOLOIST」の雰囲気を彷彿とさせるフォーキーなミディアムナンバー。
アコースティックギターが美しく響く中、ヴァイオリンやヴィオラ等の響きが音の隙間を縫うように使用されている。
僕は最初に聴いた時にどことなくSOLOISTの中の1曲「瑠璃色」を思い出した。
おそらく、テンポ感も近いことがあるのだろうが前述したとおり弦楽器が旋律に絡む形で使われていることが大きいのだろう。
是永巧一はここでもギターを弾いているのだが、曲ごとにギターの表情を幾通りにも変化させていることには本当に驚かされる。本当に凄いギタリストである。
このアルバムの殆どはKatsumaのドラムなのだが…その中に重苦しい高速ナンバーなんて当然1曲もない。そんな中でも、全く違和感なく叩くことが出来るというのはバックボーンの広さを感じさせるし、清春の重用もうなずける。
おそらく、このアルバムの中では最も昭和歌謡的であり、かなりスタンダードなポップスっぽさを感じさせるだろう。
TWILIGHTというのは日の出前や日没前のあの薄明かりが指す時間帯のことである。
”夜が来て 君はそっと
明るい声 描いて座っている”
この最初の描写を見る限り、日没前の方を指すのだろう。あの暗くなりゆくほんの短い時間を。
そしてその意味に呼応するように…
”灯りが点けたら買えるでしょうか
余りを吸ったら会えるでしょうか”
この部分は逆説的に会えない、という部分を強調しているように思う。
薄暮の黄昏は永遠に思えるが長い間ではない。
清春という人間がいかにタイトルと歌詞をきっちりとリンクさせて描いているかをこの部分からうかがい知ることが出来る。
この会えない、という部分には対象が存在するから成り立つのだろうが、それが誰なのかを直接問うのは野暮なのだろう。
僕には、これが清春がファンに与えてくれた贅沢な疑問に思えるし、それは各々の解答でいいということを暗に表現しているように感じるのであった…。
8.三日月
個人的にこのアルバムの中で最も好きなナンバー。
まず、大橋英之がこの曲でギターを弾いているのだが、歌ものに寄り添うような包み込まれる音使いやクリーントーンが気持ちいい。それはまるで宵闇に消えていく月明かりのような儚さがある。
この曲自体がバラードなこともあり、ドラムもベースもガンガンに弾き倒すなんてことはまずない。というか歌ものの清春の音楽性ではあまり見られないのだが、逆に言えばソロミュージシャン清春の歌声を完全に引き出すための役割を担っているのだろう。
10代の頃ならいざしらず、今の年齢だとこのくらいの音のほうが個人的には心地よくて、聴きやすい。
歌詞はというと全体的に哀愁がこもっているがソレを痛切に歌い上げるというよりは優しく問いかける物が中心である。
"雨を聞いたら忘れるよ
風が少しだけ流れている 会えるとしたら泣いてるよ
頬を照らす優しい人、三日月"
や
"哀れだったらこれを言うよ
僕らは誓って屈しない
頬を触る優しい人、三日月
もっと泣いて優しい人、三日月"
がその例であると思う。
特に後者の方からは単なる哀切というよりは、月明かりのように優しい抱擁と静かな決意も感じられる。
このような歌詞を聴いていると、清春という人間が長年歌手をやっている意味というのをなんとなく考えるし、年月というのがいかに人の心を変えうるのかに思いを馳せる。
今の彼が本当に歌を、そして歌詞を大事にしているのが伝わってくる。だからこそ僕はこの曲が一番好きなのだ。
ちなみに、日本には実は三日月をモチーフにした作品は少ない。特に和歌なんて数える程度しかない。
そして、実は三日月のモチーフを重んじているのはイスラム教なのだ。現にメッカに隣接して建てられている超高層時計塔「メッカ・ロイヤル・クロック・タワー」のてっぺんにあるのは、巨大な三日月。
なんでも、断食月であるラマダンはヒジュラ暦9月に三日月が現れたのを確認してから行うくらいなのだから、その信心と神聖さが伺い知れる。
まあ、そこまで考えてるわけではないと思うのだが…着眼点含めて、清春のセンスが伺い知れる作品である。
9.美学
弦楽器の美しさが光るミディアムナンバー。
まず、イントロでDURANがキュイーンという鋭いギターの音を聴かせてくれるのだが、これはヘッド弦を思い切り鳴らす奏法に由来しているものだろう。特別な名前は特にない用だが、彼が多用しているものである。
この動画の一番最初の奏法紹介で確認できる。
エレキギターによるクリーントーンの美しさもさることながら、バッキングのアコースティックギターの音色や、途中から入ってくるヴァイオリンの響きも非常に美しい。
ヴァイオリンの響きなどに防人の詩のアレンジの感じが重なるところがあるのだが、それが荘厳さや美学のタイトルの通り美しさをプラスしているように思える。
全曲通して特に複雑なことをしているわけではないベースとドラムだが、歌ものでそういうのは特に必要ないし、こうやってしっかりとボトムを支えることに大きな意味があるのである。ここの部分がしっかりしていないと歌ものである中で歌を聴かせるのは難しい。
間奏がギターではなくヴァイオリンというところに、今作で彼がいかにバンドサウンドからの脱却を試みているのかが垣間見える。
今作の清春の歌詞、その全てに「美学」というのは現れている。
"ただ 失うものは無い
空を見てたら おおらかな瞳
嗚呼、この果てよ
まだ、滅びることのなき
あなたは尊い
高貴な道のり 嗚呼、此れこそよ"
特にこの部分に僕は彼の道のりと決意を感じるのだ。
あなた、が指すものは複数存在するのだろうが、このような歌詞が歌える清春ならまだまだ色々な作品を作ってくれるだろうし、客観的に見ても良いと言えるものを作れるミュージシャンシップがまだまだあるのだろうと…。
フラメンコやスパニッシュな部分がそこまで濃いわけではないが、その部分はパーカッションが担っているのだろうし、スパニッシュは別に陽気さや情熱だけを指す概念ではないと考える。
そうするとこれも、彼の考えるスパニッシュの1つの形であると考えられる。
むしろ、その情熱と哀愁の部分はサウンドよりも歌詞に込めているのだろう、そう僕は確信している。
10.貴方になって
アルバムの最後を飾るチェロの調べとアコースティックギターが美しいバラード。
フォーキーなギターサウンドとゆったりとしたドラムの響きがまず耳に残るのだが、それを是永巧一とcoldrainのKatsumaが演奏していると考えるとそこがまず非常に面白い。
今作では全体的にバンドサウンドの脱却、そしてギターサウンドをエレキギターに任せすぎないようにしているように感じるのだが、それを最後の最後で体感する。
それでいて、どことなく全体的に乾いた哀愁が漂うこのアルバムを象徴しているサウンドのように思える。
清春の声質は個人的にSOLOIST以降にハスキーなものに変化したように思う。少なくとも、以前のように高音が突き抜けるそれではない。
もちろんそれが年齢、というものなのだろうがだからこそ表現できるようなものも感じている。
"夢、去って帰るだろうか 笑えるだろうか 何処へ
さよなら、だけど永遠
あなたを守っているよ 忘れないでいて"
この部分なんて、高音が突き抜けて刺さる頃の声質だと刺々しさもあってなにか違うと思うだろうし、何より艱難辛苦や上がり下がりを経験した彼だからこその歌詞だと思う。
今作はフラメンコの曲調だけではなく根底に流れる情熱を哀愁をテーマにしたのだろうと思ってはいるのだが、その中でも清春の表現は哀愁に傾いているように思える。
それが彼の今伝えたいことなのだろうし、曲順やアルバムのシメを含めかなり練られているだろう。
この曲を聴くと、少しの寂しさと声質の変化や表現の変化を含め、清春の今を感じてならないのだ…。
最後に
このアルバムのレビューを書くにあたり、フラメンコの起源やその曲調の種類、代表的なアーティストなどいろいろ聴きました。清春さんが興味を持ったのも納得です。
そして、それを踏まえてアルバムをもう一度何回も聴いてみて感じたのですが、フラメンコというテーマは別に曲調や単なる楽器の調べだけではないのだなあと…。
むしろ、フラメンコの根底にある情熱と哀愁の二面性を表現することに、重きをおいているようでSOLOIST以上にある意味で「歌」や「歌詞」が目立つ作品になったと思います。
さらに、今作で目立ったのはエレキギターが使われないナンバーがあるということ。
アコースティックで音数を削っていき、ロックサウンドからの脱却を図っているのは「エレジー」あたりから顕著だと思いますし…
何よりも、ヴィジュアル系というジャンルから現れた歌手がこの境地に至ったという事実。それがとてもおもしろいです。
レビューを書いていて新たに感じたこともかなり多いので、良い発見になりました。
とてもいい経験になりました。
ただ、このアルバムの長文のレビューを書いている人がほとんどいないので、一から十までフォーマットを自分で考えて書いていかなければいけないところや言葉選びを考えるのは少ししんどかったです(笑)
この拙文が少しでも参考になり、また好きな気持が伝わっていただけたら幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました!